3/20/2010

T100320オタクうらやましい/あれから僕たちは何かを信じて来れたかなあ?→そんな物は見えやしねー/信じる者はすくわれる(足を)/todolistに書くことがない.05

年末のアウェイなパーティーとかで過去の文書を思い出したので再うpした。

 

 

MAR 20, 2010

オタクうらやましい/あれから僕たちは何かを信じて来れたかなあ?→そんな物は見えやしねー/信じる者はすくわれる(足を)/todolistに書くことがない.05

 

ここ数年、さらにインターネットで色々な人がつながったりしている。

 

自分も学生時代の友人とオンラインで再会し、普通に今日の天気について語り合ったり今日食った物の写真を眺めたりしている。今はインターネットユーザーとはイコール若者の大多数なので、結構気軽にそう言うコネクションを築けるけど、ブロードバンド普及以前はそうでもなかった。

 

ツイッターはワンクリックで見知らぬ誰かをフォローできる。ちょっと前だとSNSなんかはマイミクに登録したりフレンド申請したりで承認含めて3クリックくらい?もうちょい前だとブログ。古き良きトラックバックおよびコメント交流。複数回のクリックに加え、タイピングが少し必要。

 

さらにさかのぼって、まだブログとかが流行しだす以前、個人サイトをやっている管理人は、気に入ったサイトに自分のページからリンクを貼る際、リンクページを作ったり相手にメールして許可を取ったりしていた。 それはそれは不便な慣習で、今ならワンクリックでつながれるのに、礼儀やら誠意やらお願いやら挨拶やらが必要で、すごくめんどくさかった反面、それはそれで嫌いじゃなかった。

 

アカウントをとれば一分でWEBで発言できるSNSやCMSサイトと違い、自分で場所を借りてスクリプトを設置するかHTMLゴリゴリ書く、と言う手間を惜しまずに更新するテキストサイト、ニュースサイト、趣味のサイトなどは、公開までの敷居が高い分、濃い何かが漂っており/強い意欲が必要とされ/類が友を読んだりし、読み応えのある物が多かった。

 

WEB 上でわけのわからないことをやったり、わけの分からない人たちと遊んだりしていたので、微妙にいろんなところからリンクされり雑誌に掲載された時期があったのだけど、「ヒット数をあげるぜ!」とか「有名になるぜ!」みたいなモチベーションは特になかった。

 

リアル人生で引っ越ししまくっていたので、自分の近況を友人知人親兄弟に知らせる手段が必要だったのと、web見つけたネタを一個一個友人と共有するのが面倒いのでまとめておけるスペースを作りたかった、というのが個人サイトをやるモチベーションであった。 

 

そんな近況報告&ネタ紹介個人サイトをやっていた自分が、定期的に巡回していたり相互リンクを受け入れてた他の個人サイトは、何らかの形で「欲」をテーマにしたサイトの人たちが多かった。自分にそう言う欲が無かったのでうらやましかったために興味を持ち、やり取りをするうちに親しくなったりしていた。

 

グッズやニュースを集めたようなサイト、毎日酒ばかり呑んでいる人のサイト、ゲーマーのサイト、赤裸々な性生活について綴ったサイト、物欲を記録してネタにするようなサイト、将来のために勉強や制作の記録をつけるようなサイト、何かになりたい、何かを欲しい、何かを知りたい、そういう情熱を持ったような人たちが、パソコン作業の手間を惜しまず個人の好き勝手に構築していた個人サイト達。

 

自分とは趣味も志向も違う物が多かったけれど、知らない/興味が無いぶん刺激的だった。自分が興味の無いような趣味にハマったり、時間を費やしている人の日常を眺めていると、色々なヒントや発見が得られたりもした。 「心にヒマがある生物、なんと素晴らしい!」とは漫画「寄生獣」におけるミギーの台詞だが、知能が高い生物ほど、メシ食って交尾して寝る以外のことをやる傾向にあるようだ。

 

微生物や単細胞生物が趣味に興じていると言う話は聞かないし、虫とか爬虫類も三大欲求以外の行動はしてなさげ。でも、賢い動物だと暇つぶしに同種で遊んだりする。カラスは趣味的に光り物とか集めたりする。犬も結構ヒマだと遊び始める。人間だと? 

 

 

他人の余暇の過ごし方に興味がある。生物として本能を満たす一連の行動以外の時間の使い方が、人を人たらしめている要素であるような気がするから。ご飯を食べてからだを作って、家族を作って子孫を残して養って、それ以外は寝ている他の生物と比べ、人間のなんとヒマなことか。

 

で、そのヒマを使って色々発明したり衣服に凝ったり建物を作ったりして今日の人類があるのだけど、我が身を省みるに、退化しているような印象を受けている。結構最近食って寝てるだけだから。 中学時代は寝る間を惜しんで家で好きなことをして学校で寝ていた。しかし、それ以降は年を取るにつれ、食って寝て女の子と遊ぶという要素が自分の時間を浸食している比率が高まっているような気がしている。

 

昔興味を持っていたようなことはだいたい試したので、「新しい何か」を探しているんだけど、なにかこう、DNAによる設計上そうなっているのか、生物としての経年劣化によりそうなったのか分からないけど、退屈してしまって/無為に感じて/特に興味を持てなくて、三大欲求以外のことを色々やっていられなくなった。昔はもう少しやる気があったような気がするのに? 

 

そんな自分に比べて、インターネット経由で知り合う人たちの活動を見ながら、なんて楽しそうなんだろう!と思っていた。インターネットをしまくっている人たちは何らかの意味でオタクであることが多い。オタク、と言うのに語弊があれば、趣味人、エンターテナー、偏向的な人、何かにハマっている人、とかでもいい。

 

自分がそう言うサイトをみていたピークの時に一日数千ページの個人サイトを見ていたと思うんだけど、みんなハマれることがあってうらやましいなあと感じていた。 そういった趣味人達の中には、孤独を趣味で昇華しているような人もいれば、妻子がありつつ趣味に時間を割いて二重生活をしているような人もいた。

 

ただメシ食って寝ているだけの自分と比べて、なんと充実しているんだろう、そうなりたいな、けどなれないな、なんでかな、、、と考えてて、結局、自分が「どの宗教に入るかを決めていないから」だと言う結論に達した。

 

 子供時代のことを振り返ってみる。音楽とか演劇、読書や運動、囲碁や将棋、絵画や習字なんかをを趣味/習い事/義務などとしてやっていた。

 

モノによっては一人でできたりもするけど、複数人で無ければやれないこととかも多いので、それでみんな部活やサークルに入ってスポーツをするし、教室にいって習い事をするし、共通の趣味がある人と集まったりする。

 

インターネットで出会う人たちも同様で、ネットで知り合ったオタク同士がイベントにでかけたり、SNSで知り合った人同士で合コンのようなことをやったり、ツイッターで知り合って呑みに行ったり、類は友を呼んで輪が広がったり、結構同じ界隈の人と言うか、共通項のある人でつるんでいることが多いと思う。昔だとテキサイのオフとか、今だとツイッターだと何々クラスタのオフ会とかね。

 

DTMerの即売会とかもそうだし、ビジネスでブログを使っている人たちは交流会したり。 で、そういう他人と出会う際に必要なのが、「趣味は何です」であったり、「何々系サイトの管理人」であったり、「何々コミュの参加者」であったりするんだけど、自分が興味を持っていない系の活動をしている人たちに会いに行くと、なぜそこに来てるか説明するのに困ったりする。自分はそれ関係の人では無いけど興味あるから来てみた的な。

 

何かの集団に属す際、それをやってますとか、それが好きですとか、それにハマっているからと言う理由で集まる場合が多いと思うのだけど、その辺のステップを踏まずにいきなり場違いなとこに行くので、聖地に別の宗教の人が来たような感じで噛み合わないことも多い。共通の話題とか無いし、俺は相手に興味があっても相手は同類と自分の好きなことについて喋りたいだけだったりするので。まあそれでもヒマで退屈しているから色々行って眺めているのだけど。。。

 

自分はその宗派に所属していないのに会合に参加しているので、メッカに来たキリスト教徒のような、バチカンに訪れたムスリムのような、そういう場違いさがつきまとう。 宗教と言えば、去年マレーシアに行ったのだけど、現地のキリスト教徒に「君の宗教なんなの?仏教?」ときかれて「無宗教」と答えた。

 

イスラム教徒がマジョリティで、ヒンドゥーやキリスト教徒もいるってな各教混合のお国柄なので、相手も早めに確認しときたかったのだろう。無宗教ってどういうこと?と逆に聞かれて考えたんだけど、なぜ俺がどの宗教にも属してないかと言えば「俺は自分で色々と判断したかったから」というのが理由かと思う。

 

(宗教活動をしている人に、)『信仰してどんな良いことがありましたか?』と聞くと 『自分の中での判断基準がしっかりした。世間には色んな価値観が溢れてるけど、はっきりしたものを手に入れて迷うことがなくなった。』と答えることが多い。※これはどこの宗教の信者に聞いても返ってくる良くある回答。信仰の最大のメリットはこれかもしれない。」というのは去年「完全教祖マニュアル」という本を出した架神恭介氏のブログからの引用だが、 同窓会とかをすると、社会人になった旧友達が割と高い割合で新興宗教に入っていて驚く。

 

また、友人知人のブログとかで、宗教に関してのエントリを見かけることもある。みんな一人の大人として成熟してきているから、宗教とか政治とかそう言うレイヤーのことまで考えたりするようになったようだ。 

 

「 僕の宗教に入ろうよなんとかしてあげるぜ 」と大槻ケンヂは歌ったが、俺は自分で様々な事を判断して行きたかったので、昔からあるメジャーな宗教にも、最近できた新興の物にも、特に関わらずきたのかなあと思った。子供の頃から周りの意見を聞かずに好き勝手にやっていたし、赤信号をみんながわたっていても青信号まで待ちたかったし、自分の価値観、尺度でその都度自分なりの答えを出して行きたかったので、「自分のために設立した自分の宗教に入っていたようなもの」と言える。

 

他の宗教で提供しているような、「これなら安心、判断基準つめあわせ」みたいな部分は必要としていなかった。それが、自分が無宗教である理由かと思う。 宗教に入る,と言うことは、習慣や考え方をアウトソースするような物で、キリスト教であれば毎週教会に行くとか、ムスリムであれば決まった時間にお祈りをするとか、ある期間は断食しろとか、ユダヤ教であればある期間は働いちゃダメとか、新興宗教ならできるだけ勧誘してきましょうとか、様々な部分でその宗教ならではの判断基準に基づいた行動の指針、生活の基準、よぎる疑問に対する答えが決められていて、信者は従うことを推奨される。

 

それぞれに意味が無いわけじゃなく、例えば規則正しい生活をすることで精神が安定する効果があるから定められている部分もあるだろうし、たまにみんなで集まって連携をとるためと言う理由もあるだろうし、その宗教が発生した地域で特定の食い物を食って病気にかかった奴が多かったりしたのかもしれない。

 

ダイエット本に書いてあることを守って生活するとそれなりに体重が減少するように、あるいは、習い事の教則本に従って繰り返し練習すれば上達するように、または、ハウツー本に書いてあることを試してみたら意外とうまくいったりするように、そう言ったノウハウ集を宗教の経典に内包して、みんなが幸福を実感できるように意図してやってる部分もあれば、単に習慣として定着しているから今更変えても既にやってる奴が困るってことで残ってる部分もあるだろう。 

 

インターネットで知り合った人たちの話に戻ると、音楽系の集まりでは好きなアーティストとかレーベルによってクラスタが分かれたりするし、アニメや漫画の集まりならばどの作品やキャラがいいとかで派閥が分かれたりし、テキストサイトやブログでは内輪もめでどっちにつくか議論されて両方炎上したりもするし、ってなかんじで他の宗教、宗派がぶつかるように、参加する集団において、自分の所属を明確にして適切に壁を築いて他派を排斥して行くことが良しとされる傾向が強い。

 

多くの無宗教の人がそうであるように、「それぞれ正しいと思うけど、自分はどっちにもつかなくていいや」と言うようなテンションだったりするので、そんなに深く関わったりはしないのだけど。 「体系を体系足らしめるために要請される意味の不在を否定する記号、それのアナログなのが神で、デジタルなのがゼロ」と言ったのはタチコマだが、判断基準を決めると言うことは、自分の中で数学のグラフの原点をどこにおくか設定するような物。

 

その0をどこに配置したらいいかわからない、めんどくさいのでしない人が結構多いので、昔の人はそのための様々なノウハウをまとめておいてくれた、で、現代版にアレンジして利用している人たちもいれば、新しい方法を提示している人もいるし、できるだけオリジナルのままがいいよねってな派閥もある。 

 

自分はそのどれにも参加してないのだけど、個人的に思うのは、「普段使っている環境から切り離すと自分のエッセンスが相対的に増える」ということだ。特定のコミュニティでつながっている奴らは同じ言葉や話題を共有してソリッドになっていくけれど、そう言うのと距離を置いてどこにも参加しないでいると、自分の経験や過去の記憶に基づいた判断で動くようになる。

 

俺個人の場合は、「へりくつ原理主義」みたいなのが根底にあるようだ。一貫した論理が無ければ意味を感じないような子供で、「へりくつを言うな」と担任ごとに言われていたので、さらに強固な屁理屈思考を身につけるに至り、外資企業に論理テスト最優秀で入社したりする人間に育った。

 

「やりたいことがない」という内容のこの文章を書いているのも、やりたいことがなぜ無いか、どうすればいいのかを論理的に考えるための試みとしてやっている側面が強い。子供の頃から判断基準を自分の頭で策定したいと考えていた。今だって、次に何をすべきなのかを自分で判断したいと思っている。 

 

最近、俺に対するお布施がすごい。「俺の宗教」の「屁理屈原理主義派」に属し(といってももちろん一人だが)人生に迷っている人の相談に乗って答えを提案してみると、みんなご飯とかおごってくれる。部屋も貸してくれる。服もくれたりする。衣食住は辻説法で稼げるようになっているので、たまにマジで宗教法人にした方がヒマがつぶれていいのかなとも思うのだけど、でも、「俺にまかせとけ」みたいな偉そーな説法をしているわけでもなく、喫茶店や飲み屋でだべったりしているうちに感謝されるようなノリだ。

 

ちょっと前にも書いたけど、他人の悩みを聞いて解決策を練ったりしていると、自分自身の参考になるような気がしている。他人が欲しい物を手に入れるにはどうすればいいか相談に乗ることにより、自分の視界も広がるような気もする。去年海外で仕事が無くて困っている日本人に出会って現地の採用を紹介したりもしたけど、例によって「なんでこんなに親切なんですか」と言われた。ヒマであるがゆえに、毎日のように他人におせっかいをしているので、別に普通。日常。

 

「毎日曲ができるのってうんこみたい 勝手に出てくる」 と言ったのは甲本ヒロトだが、俺にとっても人助けって毎日うんこすんのとかわらないよ。そう言う言動をしながら暮らしていると「お前悟ってんな」みたいなことを言われたりもする。まあヒマだから、色々考える時間があるんですよ。でもまだ自分自身の問題を解決(どのように暇をつぶすか)したりするほど悟りを開けていないので、今後も他人におせっかいをしつつふらふらしていた方がいいような気もしているのだけど。。。 

 

そんな感じで、俺は自分の宗教に入っているので必要ないのだけど、多くの人は自分の判断基準を考えるのがめんどくさかったり、その暇がなかったり、あるいは既にある物に心弾かれて参加をしたりする。だから、世界に宗教がいくつもあるのは当たり前だ。 何かに参加して過ごす事で安心が手に入る集団を、人は求めるからだ。で、人が求める物は派閥に別れるので、、、様々な音楽ジャンルが対立するし、様々なアニメファンが対立するし、様々な球団やサッカーチームのファンが殴り合うし、ホッテントリを巡って議論がなされるし。

 

家族、恋人、精神安定剤、酒、マリファナ、仕事への依存、アイドルの応援、宗教活動への参加、趣味への傾倒、それらは、人が何かに寄り添いたいときに、たまたま手近にあったり優位に見えたりしたもので、きっかけは様々だけど、結果的にはそいつの心のよりどころとなり、その後も定期的に必要とされて行く物なんじゃないかと思う。タイミングとかその時のテンションとかで何がマッチするかは様々なんだけど、結構まあ、何でも良かったりするよね。

 

「人の求めている物を見つけてそれを提供せよ」みたいなことはよく言われるけど、俺に提供できることで他人が求めている物を生み出す活動に時間を割くことにハマれれば、それで生きて行けるしヒマもつぶれるよねって思う。金を稼ぐとか仕事をするってそう言うことだと思うし、、、前述の通り、趣味を仕事にしたり、自分が興味を持った事ばっかりやってたから今やりたいことがなくなっていると感じているので、他人の興味に乗っかって行けばその辺が解決するような気がしているんだ。

 

 次は仕事とかについて書くかも。書かないかも。その前にmacとiphone手放してふらふらしてるかも。 ファミレスで本の執筆している友人の横でだらだらしてたので、執筆のテンションにあてられて長文書いてみた。

ふらふら、だらだら、ロックンロール

・「ふらふらしていたい」という10年が終わり、「だらだらしていたい」という現在 ・だらだらしながらも、昔やりたかった音楽とかに向けての準備が整いつつある ・ふらふら→だらだら→ロックンロール、それを目指して研鑽していけばいいのでは?